(2019年2月)
父の旅立ち         竹澤 きい  
 
白き部屋で医師と婦長は待ち受ける宣告者たる顔で我らを

母は問うそれは危篤という意味か婦長の瞳にかすかないらだち

ホスピスのバス付きルームに二週間質素な父の唯一のぜいたく

看病の母を案じて長椅子のある部屋を父は迷わず選びぬ

付き添いを母と代わりて早朝のスーパーの通路ぼうとして歩く

昨日まで父が一口飲みしゼリースーパーの棚にあまた並べる

野菜サラダ一つ覚えに買っている看病の合間ビタミン摂らんと

水さえものどを通らぬ父の病室(へや)の隅でそれでも弁当つまむ

ホスピスの給湯室で交わし合うなんでもないよな朝の挨拶

真夜中の病院の通路そっと行く夜間出入り口の明かり恋しく    
 
医師は問う好きな音楽はないのかと父は目を閉じかぶりを振りぬ 
             
医師は問う母に言うことはないのかと父は薄目を開くも答えず    
       
引き返せぬ淵にはあれど父の眼は納得などはせぬと光りぬ 

寒すぎる父を見送るにはたとえ今が厳冬の夜だとしても     

骨ばりし父の両手を代わるがわる握れどさすれどただ寒さばかり

その朝に母は電話で訴えるホスピスなのに何故苦痛かと

誰もみな苦しみあらんと弟は受話器の向こうで母を諭せり

十代にはげしく父とぶつかりし姉の呼び声ふるえて聞こゆ

「ありがとう」それしかなくてそれでいてひどく足りない父への言葉

ありふれし「思い出」という言の葉をいとおしくして父旅立ちぬ
 
 
 
---------------------------------------------
 
(2019年1月)
八ッ場ダム 吾妻線         辻村 雅子  
 
クレーンが聳え米粒ほどの人動く八ッ場ダムは炎暑の最中

岩を咬む渓流はやがて湖の底のっぺらぼうの水面となるらん

永遠に湖底に沈む谷底で人ら無口に遺跡発掘

政権の変われば中止の憂き目みて翻弄されし八ッ場の人達

紆余曲折ありて工事もあとわずか川原湯温泉は再び生まれる

見放くれば吾妻線もトンネルも眼下に見えてこれが見納め

異常気象・災害列島 八ッ場ダム必要ありと今にして思う

新しき道の駅にて食ぶるそば地場産のきのこたっぷり盛られ

そそり立つ岩山に城ありという六文銭の幟はためく

岩櫃城は眞田の砦難攻不落 容易に行ける観光地となる

岩櫃城に匿われたれば生き延びしか若き勝頼の不運を思う

虹色の虫掴みかけ「触るなカメムシだ」思わず飛びのく

草の実のベッタリと服に張り付いて我が家まで来し自然のたくらみ

黄金の稲田の上を群れなして雁渡りきしふるさとの空

復員せし叔父のみやげは乾パンと匂いガラスがリュックより出づ

叔母逝きて遥かなる日に人力車に揺られて嫁ぎ行きしを憶う

成り行きで農家に嫁ぎきし母のその後の苦労知るよしもなし

入院し最後となりし母のもとへ通い始めしは我が生まれ月

台所の窓に這わせたゴーヤの蔓に太りゆく実を朝ごと確かむ

落ち込みし事はさておき七色の菫の苗を無心に植えん