15年ということ  沖ななも(2018年4月号)

 

 論語によると、十五を志学、三十は而立、四十は不惑、五十知命、六十耳順、七十を従心という。私たちはほとんどが後半で、四十にして惑わず、五十にして天命を知る・・・などと覚えていて、最初のほうが何だったか忘れてしまっているかもしれない。しかしちゃんと出発点がある。

 十五歳で志をたてて学問に励む。むろん学問を始めたのが十五歳ということではないだろう。たぶん始めたのはもっともっと小さい頃だろうが、腹を決めるというか学問の道へ進もうと決心したということだろう。

 そんな年は過ぎたよという人も多いだろうが、しかし「熾」はいま十五歳。ようやく十五歳になったといってもいい。自分で考えられる年齢になったということである。一つの節目であり、覚悟のときでもある。作歌のキャリアとしてはもっと長く四十年五十年という人も多いはず。それでもここで区切りをつけ、立ち止まり、さらなる覚悟をするときなのではないかと思う。毎年、年があらたまるように、改めてという思いを抱くときかもしれない。いつかの時点で区切りをつけることは必要なのではないか。

 十五周年の記念企画で、「初めの一首」で出発点を見直してもらったのはそういうこと。誰にでも初めの一歩はあり、その一歩はつたないはず。幼い子供の一歩を見ればわかるようにバランスも悪いし歩幅も小さい。歩幅も歩き方もつたなかったが、それでも歩こうという意志は固かったはず。歩きたいという自ずからなる欲求があったはず。

 もう一度初心にかえって次のスタートをしたい。十五年はゴールではないのだから。すでに次号、五月号の編集にかかっているが、何か新しいものが生まれるのを期待していきたいと思う。