シン     沖ななも(2019年2月号)

 

「シンゴジラ」を映画で見そびれたので、最近テレビで見たのだが、この「シンゴジラ」の「シン」て何だろう。当然「新」だと思ったのだが、ネットでみるとさまざまな意見があるらしい。「心」とか「真」とか、英語の「sin」という意見もあった。「sin」は罪業とかいう意味らしい。監督はどれでも、好きなように解釈してくれと言っていると書いてあった。

漢字は表意文字で意味を持っている。カタカナやひらがなはそれだけでは意味を持たない。さいきん地名にひらがなを用いることが多くなってきたことから、日本人は意味を嫌いになり始めたなと思ったものだ。なんでも軽くしてしまう。

滋賀県には「マキノ町」があるが、本来は牧野だったらしいが、他にも同名の地があるので紛れないようにカタカナにしたという。牧野がマキノになったとたんに意味を失う。埼玉に東松山という地名があるが、愛媛の松山と同じになってしまうので東をつけた。他にもこんな例はいくらでもある。重なるから同名にはしないが、意味は残すという方向だった。それを止めて、カタカナにするという判断はどこでしたのだろう。

軽くなる一方、何とも言えない「意味」を付加したカタカナ地名もある。

「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」。単なる広島県でも長崎県でもむろん福島県でもない。あの、被爆地である原発事故の被災地である。「広島」と書かず「ヒロシマ」とカタカナで書くことによって、地名だけではない、限りなく重い意味が付加されるのである。

しかし本当に「ヒロシマ」「ナガサキ」「フクシマ」とカタカナで書いただけで、何かの意味を表せているのだろうか。

 



無心     沖ななも(2019年1月号)

 

家の前は小さな路地になっている。何軒かの家にだけ通じる、個人の路地なので所有者以外の自動車も通らないので、子供たちの遊び場として恰好のスペースになっている。お母さんが幼い子供を遊ばせている。お母さん同士がおしゃべりしている間、幼子たちは無心に蟻と戯れている。お母さんも無心なら子供も無心。

女の子は二歳になればもうおしゃれ。毎日髪留めというのかリボンが違う。いったい幾つ持っているのと聞いたら、七つと答えた。週一かと思った。

いま無心に蟻と戯れているこの子が、十年もしたら親に、洋服買ってくれ、靴買ってくれ、リボン買ってくれと無心するに違いない。女の子三人持ったら身上潰れる。いまからお父さんに同情する。

無心に遊ぶのはいいとして、親に無心するなんて。でもなんでこんなに違う状態を同じ「無心」で表すのか。と無心に考える。

辞書には、心無いこと、情趣を解さないこと、ねだる、というマイナスイメージの意味の方が多い。邪気が無いという、良い意味に使われるのはこれくらい。もちろん木石のような心を持たないものという意味はあるが。

仏教的な場面だと、無念無想とか、仏道修行者を無心道人というのだそうだ。だとしたらやはりよい意味なのではないだろうか。

どこから来た言葉なのかわからないが、無とか心とかは仏教的な意味からきていることが多いと思うので、親に無心する、とかいうのはどこからか曲がっていったのではないだろうか。

無心に考えてもわかるわけではないが、正反対(に近い)の意味を同じ言葉に持たせてしまう日本語って何なのだろう。