歌集・歌書を読む

(2018年4月 菊池哲也)

 

●小宮山久子歌集『百観音』(本阿弥書店) 

この歌集は作者の第四歌集で、最近十年間の437首が納められている。

この時期は、東日本大震災や自爆テロの多発、政治の危うさなどの危機が日本全体に降りかかっていた。そんな時期に作者を作歌に向かわせた要因は、

@飯田の母を訪れたこと

A夫の誘いで始めた観音霊場巡礼の旅

B岡野弘彦先生の「『古事記』全講会」聴講

の三つであると後書きに書かれている。

  けじめなき時を過ごせる母と昼を一つ寿司折り分けて食べたり

  よそ人に指摘されたる母の老いわかりをれどもなにか悔しき

  豆雛の二組棚にかざられて母のひとり居まだ大丈夫

  あと十年身はすこやけく生きてあれ 観音堂にのぼりつぶやく

  叔母の死を心底におき掌をあはす聖観音を観る人の中

  百観音に何祈りきし十年ぞこの世のわが内かなしみみつる

  いち日を富士揺るがざる秋晴れのまほらよ君がふるさと甲斐は

  いつの世のたれの思ひか山中のここに寺あり仏坐ませり

  萬神、祖神、地霊、仏様 なべてを請ぎて湯をたてまつる

 母の関わるはじめの三首は、母をかけがえのないものとする心が素直に出ており感動を誘い、観音に関わる次の三首からは人間の生と死に正面から向き合っている姿勢がうかがわれる。

 岡野先生の講座の受講の影響であろうか、最後の三首には、古代語が現代の形式で用いられているという特徴がある。

 また、次のような歌もある。

  老姉妹三人同級生もゐる、楽しよという母を恃まむ

  独り酌む祖父、みやげ提げ酔へる父人形館にまみえなつかし

  人をらず人の目はあり背をたてて彼岸中日墓までの径

 これらの歌には、読点や一マスあけがある。字余り字足らずも結構見られ、作者はあまりリズムにこだわっていないように感じられるが、それでも音読しても読みにくくないのは、それらを効果的に用いているためであろう。

 さて、最後になるが、打ち消しの助動詞「ず」を用いる場合、この作者は「ざら・ざり・( )ず・ざる・ざれ・ざれ」というラ変型の活用系列を用いている。これは、漢文訓読調を好む人で、昔から主に男に用いられる事が多かったが、作者は、これを用い、読む者に緊張感を与えている。

 

neko

 

歌集・歌書を読む

(2018年3月 中井 茂)

 

●平林静代歌集『点の記』(角川書店) 

この歌集は作者の第六歌集。書名の「点の記」とは、ある一点の所在地、高低などを表す基準点の記録一連のことをいう。素直に読めばこの歌集が、作者の現在の到達点を示すものとして出版されたということだろう。

小走りに日暮れの路地を戻りくる水のにほひの白菜抱いて

「あの頃は楽しかったね」あのころの友また一人逝きし如月

 叙情的な歌でありながらじめじめした湿り気はない。からっとしたエスプリの効いた詠い口が魅力的で、読後感もすがすがしい。声高にものをいうのではなく、運命を潔く受け止めようとする上品な諦念のような意思が感じられる。若々しい遊び心を感じさせるような歌もあり、歌集としての完成度の高さが読者に伝わってくる。

  落葉の上をとんとん弾む寒雀楽しいことでもあるのか とんとん

 

●秋葉四郎歌集『樹氷まで』(短歌研究社)

 この歌集は、作者の第十二歌集であるという。七十代後半の作品ということだが、一首一首の歌には凛とした力強さが感じられる。使われている言葉の強さなのか、言葉の使い方の強さというのだろうか。年齢を感じさせない強さが不思議な魅力となっている。作者は斎藤茂吉記念館館長という肩書もあり、自ずと上山の景色、蔵王や最上川の風景、茂吉にゆかりの場所の歌が多くなっている。また、師である佐藤佐太郎をしのぶ気持ちが、その思い出とともに歌になって顔を出す。重量感のある歌集となった。

  上山(かみのやま)の寒気をおもくかんじつつ楓の赤のことさらあかし

  佐太郎の生年(しょうねん)越えていよいよに独りとぼとぼ遠き道行く

 

●藤田冴歌集『湖水の声』(ながらみ書房)

 この歌集は作者の第四歌集。第T章浅緑(あさみどり)、第U章薄緑(うすみどり)、第V章深緑(ふかみどり)の3つの章から編まれている。

第T章から第U章「長逝」までの歌は義母の介護、介護そのものと、それにまつわる作者の心的負担が、短歌作品に大きく影を落としていて、今にも壊れそうなガラス細工を思わせる作品が続く。「長逝」(義母の死)以降は、幾分のびやかで心のゆとりが感じられるようになるが、「義弟」の思わぬ早逝といった不幸も重なり、第U章の後半も、なかなか気分は晴れない。その第U章の後半に置かれているのが次の歌である。

膝の上(へ)に白き汕頭(スワトウ)ひろげおり掬ひし湖水の声を聴くべく

「湖水の声」と題された一連の作品の冒頭に置かれた歌。この歌を境にやっと陽が射すように明るい、前向きなが歌が詠まれるようになって、読者としては、ほっとした気分になれるのである。

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2019年2月 坂原八津)

 

●恩田英明歌集『葭莩歌集』(不識書院) 

「アルファ」編集発行人の著者の第四歌集。まず、歌集名の読みに躓く。そして意味に再度躓く。あとがきにその答えがある。「折れた葭(あし)の茎の内側」の「ほのかな薄い真っ白な膜」。危うく脆い健気な膜のことだそうだ。「ひより」という名で「莩」「葭莩」。「かふ」と読む。著者は子供のころから、存在を知りながら、その名がわからず、名を求めてきたようだ。何十年も、その名を探してきた著者の感覚にまず驚く。「かふかしゅう」。

葭(あし)の茎内なる白きうすき膜莩(ひより)のやうな歌ぞかなしき

 茎の内の薄い膜のような歌とはどのような歌だろう。

  慈雨穀雨雨に拘(かかは)る言葉らの歓びのごとし草に雨降る

 自然に関する言葉は、繊細で美しい。言葉を、その意味や現象や体の感じる感覚を大切にする著者のようだ。この歌集で印象深いのは、「文部科学省 物質・材料研究開発機構 海洋研究開発機構」に勤務した職業に絡んで、調査に訪れた場所での歌だ。

  塩白く吹きし乾燥草原(ステップ)見渡しの三六〇度みな地平線

  (カザフスタン共和国旧セミパラチンスク核実験場)

  乾燥草原の片隅ここは〈神様に忘られし土地〉塵芥(ごみ)うづたかし

  指三本の腕と胴体それだけの肉体ひとつ臍の緒はあり

  さびしさにたへ難きそれは解剖学研究室の玻璃瓶の胎児

 きびしい事実だ。過去の悲惨は現在にも続く。人間の愚かしさを、研究者の立場で見、歌人として歌う。

 『左岸だより』に寄す 玉城徹先生に捧ぐ という表題の歌群から、

  あたらしき感触あれは夕空に蛇腹のごときがふと見えし歌

 このところ、この著者の案内で玉城徹の歌に触れる機会を得た。著者の玉城徹への敬愛を深く感じるとともに、その師弟両者の歌に接する幸福を思う。

  

●大島史洋著『短歌こぼれ話』(ながらみ書房)

 とにかく博識で好奇心旺盛な方のようだ。土岐善麿や島木赤彦、佐美雄、佐太郎、子規、河野愛子などの有名歌人の「こぼれ話」満載だ。それも、あたりまえのことだが、確かな文献に裏うちされたそれぞれである。それとともに、右左と左右、昼夜と夜昼。水銀とみづがね。など、気になった言葉をとことん調べていく様子も面白い。引用された多くの歌。知らないことば、知らない文人、名前だけはきいたことのある人、知っているようで知らない(もともと知らないもののほうが多いが)さまざまの言葉、出来事。「短歌往来」(20081月号から201612月号までの9年間に連載された「落書帖」からの95話を載せる。

 折に触れページを繰ってみたい1冊だ。

 

 

 

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2018年1月 中井茂)

 

●松村正直歌集『風のおとうと』(六花書林) 

この歌集は作者の第四歌集で、2011年から2014年までの作品が収められている。現在「塔」編集長。

  どのくらいまでが健やかなのだろうなしょなりずむに水をやりつつ

  エキナカの指名手配書そこだけが七〇年の髪形をして

 歌集の帯に書いてある「歳月の濃淡の中で家族の日常、言葉から滲み出る哀歓」という文章のとおり、日々の心のうねりと、それに対峙する己の姿を見つめ、描き出している。静かだが深い心の起伏は、ゆっくりであるがそれを確かめるように、自らを諭すような言葉のようでもある。

  むき合ってふたりで肉を食べているあなたもわたしも肉であること

  良い人と自分を信じていた頃の垣根に匂うキンモクセイの花

 

●川口滋子歌集『世界はこの体一つ分』(角川書店)

 歌集にある略歴によると、著者は音大の博士課程在籍中という。何か音に関する歌が面白いのかな、というような先入観を持って読み始めてしまった。たしかに楽器や、演奏会のようすなど、広い意味で音に関する歌が多いのだが、私が注目したのは、むしろ著者の物の見方というか、目の付け所(気づき)の面白さであった。

  鍵盤を雲の形の掌が踊りメフィストワルツ魔への誘惑

  水を飲む小鳥に似たる口すぼめ少女フルート吹き始めたり

  正座して説法を聞くお尻より空豆に似て二つの足裏

  受付にホルンを抱く少女らのまだ戦いを知らない瞳

 

●三井修著『うたの揚力―現代短歌鑑賞155首』(砂子屋書房)

 2016年の1年間、砂子屋書房のホームページ上に置かれた「日々のクオリア」に連載された一首評を取りまとめた一冊。最近(出来るかぎりということで)の歌集から、三井氏の印象に残った一首ということなので、選定基準はかなりフレキシブルだ。(その他、同歌集に掲載されている作品の中から三首を紹介している。)評の対象として取り上げられている作品は155首(155人)で、三井さんの想像力豊かな解説で、一首の歌は深みを増し、高みを増して、結果としては「一首評」に止まらず、歌集評でもありちょっとした作家論にまでも発展しているようなところもあって、読みごたえは充分である。

 文中には「かつて短歌とは、高らかに歌い上げる詩形であった。」という記述があるが、作者のこの認識が、すなわち「うたの揚力」という書名とつながるものなのかと思ったが、いかがだろうか。

 

 

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2017年12月 坂原八津)

 

●久々湊盈子歌集『世界黄昏』(砂子屋書房) 

濁声(たみごえ)に大鴉は鳴けり唱和して二羽また三羽世界黄昏(こうこん)

第九歌集。「たそがれ」ではなく「こうこん」と読む。不安をあおるような、何か暗い予知を抱いて鴉が鳴く。それに唱和する鴉。このまま闇が訪れ、あけない夜がやってくるようだ。ここには直接社会が歌われているわけではないが(歌われているものも歌集中に多くある)世界全体が秘めている影の大きさを感じる。この歌を読んだとき、私の中で加藤克巳の歌が響いた。ただ情景も世界も違う。

 にび色の秘密色の丘の象形文字原始たそがれ永遠未来 加藤克巳『球体』

  核弾頭五万個秘めて藍色の天空に浮くわれらが地球  加藤克巳『石は叙情す』

加藤が描いた核の恐怖。それから何十年かを経た現在の不安は、さらに複雑に内在化しているかもしれない。

 花や植物を歌った歌も多い。実にさまざまな植物がある。それぞれに花を咲かせ、木々は季節の顔をもつ。そこに、背筋を伸ばした作者の姿がある。世界とのかかわりの中に作者も花も樹も存在する。

  マスクして時々くもる眼鏡越しに眺むるこの世 山茱萸(さんしゅゆ)が咲く

  黄(きい)ひといろの銀杏に風はからみおり冬の時代はそこに来ている

しっとりとした歌もある。

  ゆうぐれはゆっくり庭におりてきてもう誰も来ぬ門を閉ざしつ

 常に前を向いて歌ってきたこの作者の姿勢はずっと変わらないのだろう。凛とした潔い強さがある。それは現在を意思を持って受け入れる強さなのだろう。

  どんな昔にも戻りたくなし濁り川ゆったり今日を河口へ運ぶ

 

●さいとうなおこ著『子規はずっとここにいる 根岸子規庵春秋』(北冬舎)

 歌誌「相聞」に連載された「根岸子規庵」と、2010926日根岸小学校での「糸瓜忌記念座談会・遠くて近い正岡子規」を載せる。

子規庵。この著者は、様々の縁で子規庵に深くかかわる。何度も子規庵を訪れる。子規に出会う。出会いは時間を越えて存在する。

 ある人の生きた場所、過ごした空間を残す。多くの人がそこを訪れる。なぜだろう。そこにあることが重要だ。空気や季節の移ろいや、音。時代や周囲の光景が変わるかもしれないがその人物の「生」のいくらかが感じられる。残してある文章があるなら、なおさら、現在との相違を探しながら、心惹かれた人物の作品に深く入り込める。

 子規の見た風景、子規の感じた季節、時間、空気、音。友人との語らい、食べたもの、家族との生活。子規からずっとのちの時代を生きる私にも、子規との出会いがあるのだろう、という確信にも似た気持になってくる文章である。子規の時間がすぐそこにあるかのように感じる一冊。子規庵を訪れてみるか。

 

 

 

歌集・歌書を読む
(2017年11月 中井 茂)
 
●光本恵子歌集『紅いしずく』(本阿弥書店) 
この歌集は作者の第七歌集。2008年から2012年までの作品が収められている。あとがきによると、私的には、父母の死があり、弟の死があり、短歌の師である宮崎信義、金子きみの死による別れ、死刑囚岡下香(獄中から未来短歌に加入した死刑囚)の、死刑執行と暗い出来事が多く、さらに社会的には、東日本大震災の発生も含まれる期間に詠まれた歌ということである。あとがきを読む限り、かなり暗い歌が並びそうに思われるかもしれないが、私が読後に感じた印象は、作品の「透明感」であった。これは作者の資質による部分もあると思うが「口語自由律」という歌い方によることが大きく影響していると思う。
  母逝き義母も犬もいない「みんなどこへいったの」子の眼差し
  ほどけてゆく感覚 白い季節に湖は淡い水彩画を描きはじめた
  肩も脛の骨格も白く太い大きな信義の骨は立ち上がりそう
 
●宮本清歌集『いとちゃんの息子』(ながらみ書房)
 教職を退職後、短詩形文学、彩短歌会に入会して、短歌を詠んでいる作者の第一歌集である。
  「いとちゃんの息子」と我を紹介し、従姉は兄の葬儀を仕切る
  「いとちゃんの息子」と呼ばれ、「いとちゃんの息子」であったとつくづく思う
 ちょっと遠い親戚の葬儀に参加した際に、自分には馴染みのない母親の愛称で紹介された。「いとちゃん」の愛称に、自分は馴染みがなかったが、その場の人には、それで十分理解されている自分という人間。「いとちゃん」という自分の知らない愛称で呼ばれていた、その時の母親を私は知らない。まるで置いてきぼりを食らわされたような作者の戸惑い、心の動きが生き生きと描かれている。
  冬空に流星群を待ちおれば、飛行機一機 オリオンを過る
 
●遠藤由季歌集『鳥語の文法』(短歌研究社)
第一歌集『アシンメトリー』で現代短歌新人賞を受賞した作者の第二歌集。2010年から2016年初夏までに詠まれた375首からなる。この歌集の魅力は、歌に紡がれている言葉の新鮮さと発想豊かな表現の面白さというものだろう。
  月光はスライスアーモンドより脆く身じろぐたびに割れてしまった
 「月光はもろく割れてしまった」が文意であるが「スライスアーモンド」という言葉が「月」のイメージと「脆い」という言葉を巧みに導きだして、効果的だ。イメージや発想の面白さだけではなくて繊細な言葉遣いも伝わってくる作品だ。
  鳥語にも文法があり複雑な声音に愛を告げる日あらむ

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2017年10月 坂原 八津)

 

●山下一路歌集『スーパーアメフラシ』(青磁社) 

1976年刊行の第一歌集『アフリカへ』から41年ぶりの第二歌集。

火の国の母国語でいう。革命は―白鳥の首垂れており空港に

あやまちのすべてを鳥のせいにして皆殺しにする飼育係は

 第一歌集の最後の歌を、第二歌集の最初の歌。そこに何の関連もないかもしれない。この間41年。社会に目を向けて、しかし率直には歌わない。鳥は言葉を持たない。言葉を持てない。

心までブルーシートに覆われた遺棄死体があがる神田川

 今の現実の一コマ。語らないもの、語れないものが、意味を持たないものとして遺棄される。そしてその立場は容易に逆転する。遺棄死体がとのまま自己になる可能性を秘める。

  とつぜんのスーパーアメフラシ父さんの見る海にボクは棲めない

  大人用オムツ履かされ父は鯵のひらきのように自己を投げだす

 身近な人間だから世界が共有できるわけではない。その海に存在する父は、このせかいでは鯵の開きのように存在する。投げ出す自己とは何だろう。

  ここからは二手にわかれ制覇するアフリカ隊とアジア分隊

  なさけない欲望のなか恥ずかしく激しく排泄をする印度犀

 なぜ動物園に行くのだろう。何を制覇するために、食料と水はちゃんと持ったか。そこにはあらわに排泄する、自然を離れた動物が、生きている。

  かわたれの監視カメラに囲まれて公園にいる家族みんなで

  順番に十階のフェンスを超えて子供が落ちる 飛べないのだ

  水を湛える星のニュース 孤独が力であった時代の終わりに

 監視カメラに守られ、フェンスは守りにならない。内なる現実は厳しいようだ。孤独はかつて自己を守ってくれた。それは幻想だったのだろうか。時代が変わったのだろうか。あまりにも、自分の感覚で読んでしまったが、その楽しみ(うら返せば痛み)のある歌集。

  

●松平修文歌集『トゥオネラ』(ながらみ書房)

 トゥオネラとは死の国の川であり、「トゥオネラの白鳥」がシベリウス作曲の交響詩と、加藤英彦の跋文で知る。

  かへせ 僕にかへせ かへせ 老母(はは)を納めた柩をかへせ

 この歌は声を絞るような母への挽歌だが、その前に置かれた歌と続けて読むと美しい音楽が聞こえてくる気がする。 

  遺言が空を流れて 寒き夜の群星はつくる柩のかたち

 柩は星々でできており、声は夜空に響く。

  枯木ばかりの森で私を見かけたと言ふが、あなたは誰?そしてその森は何処(どこ)?

「私」はいまどこにいるのだろう。国境のない音楽と絵画が現れる。第五歌集。

 

 

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2017年9月 中井 茂)

●山野吾郎歌集『痩せ我慢』(短歌研究社) 

つきつめて男はみんな痩せ我慢 冷奴(やっこ)にずぶり箸を突き刺す

 歌集の題名につながる一首。「男ってみんなそうだよな」「痩せ我慢でもいいからもう少し何事も我慢する世の中であってもよいのではないか」「おのれの余生を思うと、もうやせ我慢はほどほどで良いはずだが、おそらくまだまだ痩せ我慢を張って生きてゆくのであろう」と、「あとがき」に本人の覚悟が書かれているが。今日的傾向として言わせて頂くなら、「我慢できる人には、ところん我慢していただいて、なんとも我慢できない人、こらえ性のない人たちの我儘を少しでも和らげていただくために、みんなで苦労していきましょう」という世の中になっているのである。

 作者は、歌誌「ひのくに」の代表者。8年前(平成21年)に急性心筋梗塞を発症し、2か所にステントを埋め込んだということである。以来、薬と減塩により、要観察の日々を過ごしているとのこと。「痩せ我慢」のストレスが病気の要因になっているのではないかと思うと、深刻な話なのであるが、おそらく生まれながらの性分もあって、「痩せ我慢」の日々はまだまだ続くと思われるのだ。

  やせ我慢ばかりしてきし八十歳こらえることは美徳だったか

 最後に、人名のある作品から2首。

  蘊蓄を鯉の料理へ傾くる堤清と水城春房

  無念とはかかることなり小高賢 約束までの三年(みとせ)を待てず


 

●笹公人著『ハナモゲラ和歌の誘惑』(小学館)

 未来短歌会選者である笹さんのエッセイ集である。「其ノ一 誘われてハナモゲラ」「其ノ二 短歌をめぐる冒険」「其ノ三 笹公人の短歌的生活」の三部構成プラス「山下洋輔さんとの対談」から出来ている。まあ、なんと言っても書き出しからかなり挑発的である。「五十代以上の人なら覚えている人も多いと思うが、」と書き出しているのだが。奥付によると笹さん本人は1975年生まれとあり、ご本人は四十代前半ということになる。そんな四十代前半の人が、上の世代を十把一絡げにして「五十代以上の人なら覚えている人も多いと思うが、」と切り出すのは、かなり勇気のいる台詞だろう。どうやらこの本、読む人を挑発するのが目的で書かれているようだ。

 「其ノ一」では、言葉の意味・内容に引きずり込まれて、韻律の美しさを忘れてしまったような今日的短歌に警鐘を鳴らし、「其ノ二」では、歌の対象・歌い方を「もって自由に、大胆に」と勧めてくるのである。そして「其ノ三」は、笹さん的私的歌論の書といったところ・・・。しかし、こう書き直してしまうと、至って正攻法的な歌論書? ということになってしまう。ここは飽くまでも「ハナモゲラ和歌の誘惑」が必要なのである。

 

 

 

 

歌集・歌書を読む
(2017年8月 坂原八津)


●三枝浩樹歌集『時禱集』(角川書店) 
タイトルは「好きだったリルケの『時禱詩集』を意識したもの」と。リルケの名に久しぶりに出会う。「歌は鎮魂であり、祈りでなければならない、とそう考えた時期が長かった」「歌を詠むことは次第に祈りのもうひとつのかたちとなっていった」とあとがきに書く。第六歌集。
  風の花ひととき舞いて空明るし肉のほろびをみな人は持つ
  霜月のひかりのなかに散りいそぐこまかなるこまかなるからまつの針
  時の中に埋もれたるもの拾いたり野は枯れていちめんのあかるさ
 からまつはそれぞれの季節の光の中に輝く。明るく細やかに美しい。それはさりげないほろびを秘めて、そしてほろびに従順であるからなのだろう。人も樹も。
  ゆっくりと離散してゆく空の雲 神ありて神なきがごとしも
  亡きものをなきと知るまでいくばくの時間の中にわれはたたずむ
 この歌は近しい人の死に関連する。信仰を持つ筆者の語る神を私が捉えられているかは自信がないけれども。
  またひとつテラスに落ちてころがれり 夢の語りのようなその音
 日常に寄り添うものはささやかに優しく、かすかな音は暖かい。
  雪止みたる野の道と空 消失(フェイドアウト)という優しさが世界にはあり
  ゴドーを待ちながら人生がすぎてゆくかたえの人もようやく老いぬ
 鎮魂を抱えた祈りの歌が多い。静かな祈りのかたちが続く。

●大辻隆弘歌集『景徳鎮』(砂子屋書房)
 2011年から2014年までの350余首、五十代前半の歌群。第八歌集。
  白磁器の並べる棚にひえびえと澄みゆくこころ持ちて近づく
  秋の日の景徳鎮の青白磁月下の肌のごとくし白し
 歌集名は「青ざめた白い肌地がさえざえと美しく心惹かれた」ことによるとあとがきに触れる。景徳鎮を直接詠んだ歌は少ない。が、この冷たい光の美しさは触れていない触覚をも刺激してくる。
  東北に冷たき雨が降る昼を陽の深く差す椅子に座れる
  「生きのびた僕らの使命」などといふ使命を帯びて生くるとは何
 震災の年とその後に編まれた歌だけに、抑えた表現の中に複雑な気持ちが滲む。光をもっての表現が隠れた影を生む。
  沖遠くひかりのつどふ場所ありて浅き呼吸のごとく照り映ゆ
  死に切れぬ父に今年の春が来て三月十一日の昼過ぐ
 この間、父を送ったことが見える。描かれる光が複雑な心情をうつす。
  わが部屋の物に即きたる夕闇が身を引き剥がすやうに立ち来る
  まだ死者と呼ばれぬままに横たはるひとを思ひぬ麺麭を裂きつつ
麺麭という漢字は痛い、とふいに思った。

 

 

 

歌集・歌書を読む
(2017年7月 中井 茂)


●坂井修一歌集『青眼白眼』(砂子屋書房) 
  にんげんにかへれば恋へり言葉より肉欲よりもふかき眠りを
 荷車の木製の車輪が砂を噛んで、砂粒が悲鳴を上げている。そんな叫びを聞いたような気がした。あとがきにあるヘルマン・ヘッセという名前がそんな連想をさせたのかもしれない。
 日本の「組織」というものは、個人を押しつぶしてしまうためにあるのではないかと思うことがあるが、坂井さんの場合、車輪の一部というより、回転する車軸のような立場にあるようなので、受ける重圧は、私の想像を超えているのであろう。また、年齢的にも、自分の行く先が、そろそろ見えて来る。あるいは想像出来る範囲が狭められてくる頃だ。精神的にも「きつい」時期であろう。
  教育は国際競争さうさだけどさびしすぎるぞパンの競争
  かりがねよ暮れゆく上野不忍よ眠るなよここは煉獄の縁(ふち)
なんとなく危ない歌が多いが、あとがきによると、この歌集は、「陰陽混合」であるという。(「少し陰に片寄っている」と書いているが・・・)
  「寝癖まだ残つてゐるよ」妻がいふ 岩飛ペンギン私が跳ねる
変顔は教壇に声はりあげるわたし白髪とたれ目の私です。
無論、無理に陽気である必要はないのであるが、このくらいの余裕がある歌が好きだ。読者としては、少し救いが欲しくなる。

●石田比呂志歌集『冬湖』(砂子屋書房) 
 平成23年2月に亡くなった石田比呂志氏の遺稿集。第17歌集『邯鄲』以降の作品(225首の歌と没後見つかった「孑孑記(げつげつき)」と題された散文を収録して阿木津英さんが出版された。
  出自はと問う人あらばほらそこに転がっている石っころだよ
  俗名の石田比呂志氏伴いて歩めば雨が底抜けて降る
自由で闊達である。人間は、それはそれは小さな存在である。その前提のうえで、精いっぱい生きることに賭ける、という潔い分別が感じられる。しかし、まったく物分かり良く見切っていたわけではないことが、次のような歌に出ている。
  泥濘(ぬかるみ)を踏みて行きたる足跡にああ傍流の哀愁が見ゆ
広い大きな道の中央付近は、小石が敷かれているので雨が降っても泥濘になることはない。しかし、道の脇の方(中央から外れたところ)では、雨が降ればたちまちぬかるんで歩きにくくなってしまう。自ら選んだ道ではあるのだろうが何とも歩きにくそうだなと見ているという歌である。自分のこと? と思わず聞きたくなってしまう。一瞬、ドキッとするような歌だ。


 

 

歌集・歌書を読む

(2017年6月 坂原八津)

●阪森郁代歌集『歳月の気化』(角川書店) 
 阪森郁代(玲瓏)の第七歌集。
  歳月の気化を思へり午睡より覚めて肌には藺草(いぐさ)がにほふ
「まるで気化してしまったかのように、たちまち忘れさられていく時代」だからこそ、「歌に託して残しておきたいという思いは以前にもまして強くなりました」とあとがきで述べる。確かなものは、移ろいながらも季節を抱く花や、たちまち消え去る風花にあるのかもしれない。
  さざなみを立てて過ぎゆく歳月を南天は小さく笑つて見せた
  初めての、と言ひかけて口ごもるその場かぎりのやうで風花(かざはな)
  紅梅のつぼみのほとりに立つ人は花の蜂起を待ちゐるごとし
日常をつなぎとめているものはささやかな自然。これらの歌を読んで改めて思う。
  レポーターは言葉に変へて繰りかへす無いはずのない見えない物を
前後の歌群からみると、原発事故の放射線を歌ったものだ。言葉でしか伝えられない存在がここにもある。
  ヨブ記から少しはみ出す付箋あり花水木(はなみずき)すでに花期を終へたり
  ある地点までを架空の道として欅の道は真つ直ぐつづく
日々目にするものは、歴史や物語の一部であり、振り返る日常である。

●しんくわ歌集『しんくわ』(書肆侃侃房)
 帯に「笑ったらいいと思う。」とある。この言葉はどこから来たものか、ページを繰っているとカードゲームの「偽カード集」なるパロディーに満ちた不思議なページに行き当たる。
  岡山でカード整理出来ず泣くしんくわの声聞くときぞ秋は悲しき
のカード説明文中にある。カードゲームを知らない者にとっては、何を意味するか分からないページだ。私も詳しくは知らない。どうしようもない若者が、深刻ではないがどうしようもない状況にいる場面。ごめんなさい。こんなとき私は、どういう顔をしたらいいのかわからない。
  理科室の水槽の中の僕たちに新月の夜を知らせたペンギン
僕たちは(ペンギンも)何者で、ペンギンはどこからきてどこへ行ったのか。
  かばん中に君の身体をたたむようにだからといって殺さぬように
詰めるのでしょうか。そして何処へ。
  百年も経てば涙は乾くでしょう 僕は沼地で溶けゆくでしょう
そして眠り続けるのです。形もなく。
  僕の街には何もかもあって、でも本当に望むものはないのかもしれない
本当に望むものを探し続けるための、街。
  しまなみの海道 平和で申し訳ない
本当に申し訳ない。潮流は速いですが。第三回歌葉新人賞受賞。選考審査員が、「日本のちょっとコミカルなB級青春映画を見るような」「むしろ普通の青春歌よりもリアル」と評している。一冊の本として「笑ったらいい」のかもしれない。

 

歌集・歌書を読む

(2017年5月 中井 茂)

●金子貞雄歌集『はにほへと』(飯塚書店)

この歌集は、著者の第八歌集で、63歳から67歳までの間に詠んだ作品の中から自薦した472首が掲載されている。また、「一首独立の詩形である短歌に題名を必要としない」との大野誠夫(著者の師であり、「作風」(「砂廊」から改称)の創設者。ちなみに著者は「作風」の現在の代表者である。)の考えを踏襲するとして、連作等を示すような「題名」は記されていない。

私は今年63歳になる。この歌集に詠まれた著者の生きた時間を、これから生きようとしているのだと思うと不思議な気持ちになってくる。もちろん作品を鑑賞するのに、同時代性というものが絶対的に必要かというと、そんなことはないのだろうが、それでも自然と共感を覚えるのは、まさに自然な気持ちなのである。

一方で、著者の独特の世界観を感じるものがある。それは、すでに死語と言われかねない言葉であるが、敢えて言うなら「ダンディズム」という言葉である。作品が自ずと纏っている雰囲気といったものだろうか。あるいは無口で不器用な、まるで高倉健演じるところの「昭和の男」と言い換えた方がぴったりするかもしれない。(実際の金子さんが「実務家」で、「組織人」としてもすばらしいと思っていたので、この落差にはかなり驚かされた。)

夜半におよぶ妻と娘の話し声聞き取れさうで眠気を覚ます

別れとは再びの会ひを待つ行為去る人に振る右の手あげて

 テーブルの隣る二辺の妻と吾顔を背けず且つ真向かはず


●奥村晃作歌集『ビビッと動く』(六花書林)

 作者、77歳から79歳(80歳の誕生日の歌を含む)までの320首を収めた歌集であり、作者の第15歌集である。展覧会をめぐる歌が多いかなという印象をもったが、基本は自由で自在である。北海道旅行の歌があるかと思うと、京急マリンパークの歌、さらに大阪や京都へ行った歌もある。80歳近い作者とは思えない、精力的な行動力にも驚かされる。

  メダカ愛強き吾妻は餌(え)をやり過ぎ水が濁って次々死んだ

この歌によると、メダカは奥さんの好みのようだが、作者自信のメダカ好きも面白い。「ダルマメダカ」と題する三首。

  まん丸のパチンコ玉の胴体に目や鰭の付くメダカと変(な)りぬ

  新変種〈ダルマ〉と名付け観察す胴が球体となりしメダカを

本書の帯に書いてある「益々自在」とか「独自の歌境」という言葉が説得力を持ってくる。あくまでも自然で、呼吸をするように歌われている、という感じがする。

 

 

歌集・歌書を読む
(2017年4月 坂原八津)

●『筒井富栄全歌集』(六花書林)
平成12年(2000年)に70歳で亡くなった筒井富栄の全歌集。2016年、息子で歌人の村田馨(短歌人)によって編まれた。筒井富栄は、1956年「近代」に入会。その後「個性」で活躍。この全歌集は、存命中に出版された第一歌集から第四歌集まで『未明の街』(1970)『森ざわめくは』(1978)『冬のダ・ヴィンチ』(1988)『風の構図』(1998)と未刊歌篇と初期の歌篇、歌人論からなる。第四歌集のあとがきに筒井は書く。「新カナ、五句三十一音周辺、文語口語まじえての用法は第一歌集『未明の街』から変らない。文法にとらわれず、思いきり歌うということもまた同じである。」歌いたい世界を歌い続ける。それは、第一歌集から第四歌集まで変わらず、自在である。提示される風景や場面は具体的な時間や場所を超えていく。それでいてみずみずしい現実感がある。
 死者まねる青年に牛の首ささげわらいあうわれら 夏の末裔
 不意に手をつなぐビル街午前零時白鳥座カシオペアともに異常なし
 保護色をもつ者だけが住む街に今朝猟犬は放たれてゆく
 水銀灯の中にただよいにじみつつ街は消え去る事への恐怖 『未明の街』
帯に「モダニズムの系譜に連なり」とある。モダニズムについては、さまざまな解説があり、理解や説明が難しい。しっくりこないまでも、納得するのが「芸術のための芸術」あたりだろうか。表現以上の何か(行間以上の背景のようなもの)を込めようとはしていない。歌を歌として楽しむことが許される、と思う。
 つかれはてた帆船のように手をたれるわが視野にだけ雨は降るのか 『森ざわめくは』
 地図の上あらゆる都市に雨が降るうしろ手にドア閉じし時より
 木星軌道の寒き外部に浮遊する暗い紫 誰の過去なる
ただ、歌の淋しさが漂う。透明なさびしさ。それを筒井の人生と重ねて読むことはするまいと思う。病気や、実生活は作品に影響するだろうが、影響であって本質ではない。
 石壁にもたれてみればイカロスが堕ちつづけたる空の暗さよ 『冬のダ・ヴィンチ』
 雪降らばわが窓下をゆきすぎるダ・ヴィンチとその男弟子たち
筒井富栄さんにはとても多くのことを教えていただいた。私が短歌を始めたばかりの二十代からずっと、その作品と批評から多くのことを学んだ。
 眼底をガラスの船がゆきすぎてやがて砕ける音のみきこゆ
 群鳥はさらに北へと飛び立てるわが北限をここにきめし日 『風の構図』
歌が読み続けられることで作者は生き続ける。あたりまえのことを改めて思う。

 

歌集・歌書を読む
(2017年3月 あべまさこ)


●大井学歌集『サンクチュアリ』(角川書店、2016年)
『サンクチュアリ』は、「かりん」所属、49歳の大井学氏の第一歌集。歌集から、原発被害の福島がお里と察した。生と死、存在と唯心など、痛烈な被災地体感と哲学的志向による作品世界に圧倒された。
冒頭からシャワー水の死者感、バスタブの屈葬連想など、おどろおどろしいリアルな世界が展開する。
僕という仄かに青い現象を見付けた方はおしえて下さい 「幻日」
この歌に呼応して青酸カリ、青木ヶ原樹海を折り込み、死につながる「青」のスペクトラムによって危機的存在を提示する。伸びやかな私性が抑制されている。
自然被害の極限のいたみや過去の戦による理不尽な犠牲からも生き継いでいることの有り難さに突き動かされる。
牛鳴きてのち春の草ひかるのみチェルノブイリも母住むまちも   「バックミラー」
死んだという連絡はあり死んだというあなたのからだにあいに夜を出ず 「大円鏡智」
私の専門である認知療法において、逆輸入の東洋のヨーガを取り込んだマインドフルネスが昨今盛況である。日本人にとって身近である仏性と死の淵で「心」を求めて歌道に励んだ先人への関心がこの歌集との出合いで一層強くなった。


●坪内稔典句集『ヤツとオレ』(角川書店、2015年)
 『ヤツとオレ』は坪内稔典氏の60代から71歳まで詠まれた第12句集である。
 笑いながら頁を繰り、知人に向けて口誦したくなる句集であった。そして、感性が喜ぶ体験に浸れたことは、有り難く爽快だった。おもしろさはもちろんであるが、「蛸」ばかりの人称、丸みとふくよかさで水に漂う「カバ」の喩など、少し止まって問うことが快感であった。
  野を焼いた匂いの男女、君と僕  「臍出しルック」
  文旦とカバは親戚ねんてんも   「布袋の臍」
  老人を拾って揺れて秋のバス   「老人を拾って」
  ヤツとオレ日本菫学会員     「基本的人権」
 坪内氏は俳句を「片言の詩」と述べられた。俳句は、発生的には歌謡の「片歌」を起源とする。「片歌」は、「問う」事を特徴とするため、坪内氏の俳句のもつ「問う」世界に通じるのであろう。
 長らく文学世界は、アイロニー(皮肉)を展開しながら、人間世界を描き、批判してきた。しかし、人間不在の進む時代において、アイロニーでは現実を止揚できなくなっている。そこで存在論的倫理世界では、自他世界でのユーモアこそが求められている。認知療法でもユーモアは重視される。文学も坪内氏のようなユーモアに光があるのだろう。





歌集・歌書を読む

(2017年2月 川原ゆう子)

●斉藤斎藤歌集『人の道、死ぬと町』(短歌研究社)
作者の第二歌集。2004年から2015年とあり、かなりの分量の歌数だ。でも引き込まれた。
 作者の名前だけは聞いていたが初めて歌集を読んだ。作者の名前の漢字も初めて知った。なかなか手ごわい歌集だった。他の方の評を借りても仕方がないので、何とか自分なりの感想を書きたいと思う。ときおり共感できる歌がある。多くのわからない歌がある。
 私が作る短歌とは違いすぎて、立ちすくんでしまう感じがする。でも読者としては、いったい何が出てくるのだろうと思い面白かった。不安定な宙ぶらりんな表現のまま読む者を置いてきぼりにしてゆく。この置いてきぼり感には余韻があって嫌いではなかった。
 現代の写生短歌と言っていいのかもしれない。生命のあるなしに関わらず、すべての存在するものを対象として作者は語りかけ、そこに発見をしている。強い思いはあるのだろうができるだけ歌の中ではそれは見せない。
  「いてほしかった」言ってソファにしずむ人私にできること いること
 震災関連の作品は興味深かった。当事者ではない作者が何とか近づこう、この震災をなんとか歌にしようとして、現実の近くをうろうろ歩き回って苦しんでいる感じがした。
  いちめんのない 片付いた工場のない屋根に大群の鳥の黒 ない
 そして『私の当事者は私だけ、しかし』という題の短歌の当事者論は難解だったが気付かされることがあった。短歌における「わたくし」について、自分の言葉で語れるように、よく考えてみたい。

●おの・こまち歌集『ラビッツ・ムーン』(ながらみ書房)
 やわらかい6色の水玉模様の表紙には、たくさんのかわいいウサギの絵、一枚めくった扉には大きな別のウサギの絵が描かれている。1999年から2016年までの短歌をまとめた第一歌集。子育ての歌も多い。戯曲作者であり劇団を立ち上げたとのことで演劇に関する歌もある。
 軽やかで自在な短歌だと思う。経歴に私が影響されているのかもしれないがセリフのような言葉が入っている歌がたくさんあるような気がする。
  彫刻の杖がお洒落なおばあさん木に寄りかかるのも素敵なんです
  人差し指第一関節まで沈め種のおうちを作っています
  乗り合いの満員バスの行き先に大きな夕日 皆見ておりぬ
  「人間はほんとうにいいものかしら」狐の母に何と返そう
 人が好きでいのちをいとしく思い短歌を楽しんでいる感じがする。添えられている文章は『こまち・うた劇場へようこそ』という表題だった。その明るさをなんだかうらやましく思う。

 

 

歌集・歌書を読む

(2017年1月 あべまさこ)

●石川恭子歌集『黄葉の森』(砂子屋書房、20161月刊)

 『黄葉の森』は、石川恭子氏の第二十一歌集である。初出が2000年から2002年であることにより、作者は時事的な素材に古さがないかと危惧された。危惧された素材は、その当時の話題性のある出来事で、21世紀の幕開け、9.11のテロ、戦争、皆既月食などである。

  平和小学校とふ名にさへ復興の力こもりき今年少子化廃校

  ビル体に激突のテロ機吸ひこまれゆきて還らず阿鼻叫喚の刻

  空爆に荒れはてし野は月面のごとしといへりアフガンに冬

  黄葉の森に高鳴く鳥の声午後の地軸のかたむき速し

 素材の切り取りの鋭さや細微な情報処理と優れた言語感覚の充満した作品は、今読んでも古びた感じはしない。その上、現実感をもった課題を提起する。

 作品は総じて、生活における神々の意志のあらわれである「景」を描写しながら理知的な抒情の「心」を調和した作り方でほぼ統一されている。「アマリリス」、「富士」三組の長歌及び反歌を四組織り込まれた点、花鳥風月、季節感など、日本の伝統美が作風に根付いている。伝統を意識しながらも、時代へのクリティカルな視線を注ぎ続ける石川氏の作歌姿勢は正に威風堂々としている。 

 伝統を継承する凛とした作歌姿勢と問題を見据えた思索探求が生み出す石川氏の作品の二重奏はハンサムである。

●阿木津英著『短歌講座キャラバン』(現代短歌社、20166月刊)

『短歌講座キャラバン』は、阿木津英氏が朝日カルチャーセンターでの短歌入門講座における学習雑誌「旅隊(キャラバン)」のエッセイ風後記を集成されたものである。1987年から2008年の間の76題が盛り込まれている。作歌の道しるべとして折に触れ開きたくなるポケット本である。

 印象的な部分の要約を私のノートから言葉のシャワーにして以下に放つ。

1古代の息吹:歌をつくるということは、古代の人々の嘆きや憂いや喜びに触れて、こころをふるわせてあらためて生きることの意味を自らさぐること。

11弁解不要:歌会の基本的な態度@自作を弁解しないA最善作を出すB日々、細部に砕身鏤骨する。

22作歌の基本的な心構え:@歌を多読する。茂吉のいう「ふるいつきたくなるような歌」をノートする。A「語彙ノート」も作る。[引用]窪田空穂の『短歌に入る道』より「いい歌とは自分の心を十分にあらはしえたもの」「心の生地を出さうと思ふこと。生地とは心の心で、殻を破り去った本当の心」。

26推敲とは掘り出すこと:@語句の言い回しの未熟の訂正A素材対象の明確化−具体的な表現B言葉の正確化C上塗りでなく掘り出すことD力量を知ること。

40未来の生をつくっていくこと

 






歌集・歌書を読む

(2016年12月 川原ゆう子)
 
●古谷円歌集『百の手』(本阿弥書店)
作者の第二歌集。生活という現実を悩みながら作品にしているように思えた。具体的であり内省的であり、物事の本質を見極めようと苦心している。
風薫る洗濯を詠みてさびしみぬ職業詠と呼ばぬ当然
基地を持ってお帰りくださいと声震えバスガイド言う旅のわれらに
中年の女となればきっちりというべきである まず顔上げる
家族についての歌も多い。
  ドア開けて入り来る夫の無表情月に照らされ縁ひかる雲
  かやくごはん手をかけ炊きしわが時間黙って食べる少年二人
  手花火はもうしない夏息子らは本読み静かにおのれを悩む
子供たちは成長して離れてゆく。自分も中年となり、自分の親は高齢になってゆく。家族を思い、社会を思い、自分の生き方を考えている。読み応えのある歌集だった。

●井上法子歌集『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房)
  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火
 二十代の作者である。「新鋭歌人シリーズ」のうちの一冊。作品には、具体性がなく、意味を読み取ろうとしても取ることができない。しかし難しい言葉を使用していなくて、歌全体が優しい。
 「わからない」短歌について最近批評に取り上げられることが多いようだ。作者の歌もその範疇に入っているようだが、私はこの歌集の作品は好きだ。しかし、どう説明していいかわからないし、どうほめていいかわからない。無責任で申し訳ないが直感としていいなと思う。
 冒頭の、歌集の題名にもなっている一首は、何を詠っているかわからない。しかし、「永遠でないほうの火」という言葉にぐっとつかまれるような感じを受ける。それだから心配しなくていい、「だいじょうぶ」だよというのだ。
 「現代の詩のような」とたとえてしまっていいかどうかわからないが、詩を読んでいるような感覚だった。三十一音定型を使用して、現代詩よりも難解に流れることなくコンパクトな詩的表現になっていると思う。現実を詠っていないのだが、作者のメッセージのようなものを感じることができる。
 この歌集の印象は強かった。詩的表現に重きを置いて詠う作者に感心した。私は実生活を短歌で詠ってきた。どちらも否定したくはない。短歌とはどうあるべきなのだろうと何日も考えてしまった。こういう短歌をつくる人が出て来たのだなあと私は少し参っている。


 

 

歌集・歌書を読む

(2016年11月 あべまさこ)

●森垣岳歌集『遺伝子の舟』(現代短歌社、20163月刊)

第二回現代短歌社賞を受賞した『遺伝子の舟』は、森垣岳氏の第一歌集である。田中教子氏の寄稿文が、作者ともども歌集を克明に解題されて含蓄がある。研究家で農業の高校教師という専門性、生徒との独自なやりとり、再々婚の父親による分籍体験の感傷、妻と第一子による幸福感が属性による歌柄である。

 遺伝子の舟と呼ばれし肉体を今日も日暮れて湯船に浸す

 「遺伝子の舟」とは、クローン製作の用語。科学による肉体の無機質化に生身の肉感を沿わせる表現が新奇である。

  黒々と拡がる天上浮かびおる月に嫦娥(じょうが)の足音

 嫦娥とは、中国の神話に登場する仙女である。森氏のこのような画家志向に関連した古典美傾向や科学的美意識に伴う「無心」の作歌態度を田中氏は「有心」の対極として高く評価された。

 久松潜一氏は、『毎月抄』において定家の説く「有心体」の語釈を、「有心体は、定家の最も理想とする歌体で、「心」(表現内容―趣向と情趣)・「詞」(表現態度)のいずれも優れた歌」とされた。

 「有心」の以前に「景+心」の歌論があった。「心」は、神々の意志のあらわれである「景」中心の和歌に、人の心が「景」と同価であるとして主導された。

 奇しくもこの歌集は、「景」を凌ぐかのような科学と「心」がマッチする。

 

●橋本喜典著『自然と身につく 名歌で学ぶ文語文法』(角川文化振興財団、20163月刊)

 橋本喜典氏が「短歌」に連載されたものをまとめたガイド本である。本書は、文語文法の愛読書用にと、ソフトカバー、手の平サイズ、厚さ一センチ未満と外的にも読者思いの良書である。

 しかし、桜色の帯に麗雅宋体で書かれた「気がつけば、文語の達人」の文言が文語文法音痴の私の心をぐらつかせた。

 私の先行本体験の反省から、@文語文法の知識部分の書き出しによる定着、A名歌の暗記、を課して本書にトライした。

 書き出すことで、大方は理解事項という初読の印象を修正するにいたった。例えば、推量の助動詞「らし」と「めり」の差異は確信の有無であることなど、味わうように文語文法の違いを掴めることは感謝感激。ノートすることで、全体が把握でき反復の勉強がはかどった。

 引用された名歌を、文語文法のマスターのためだけでなく、心身に馴染ませるように読むことが快感であった。

 窪田空穂の十一音を筆頭に、百四十余名の歌人の二百首ほどを書き出し、名歌の醍醐味と文法のエキスを愉しんだ。

 大方の歌人には、オートマチックの意味となる書名の「自然」。私には人間の本性という意味に近く、合理性と運動の営みで自然となったことが有り難い。

 

 

 

歌集・歌書を読む

(2016年10月 川原ゆう子)

 

●大口玲子著『神のパズル』すいれん舎

作者は東日本大震災が起きた時、宮城県仙台市に住んでいた。

その後、福島第一原子力発電所で事故が起きたという情報を受け、当時二歳のお子さんと、とにかく今住んでいる所から離れることを決意する。そして現在は宮崎県にお住まいだ。この歌集には作者の講演記録なども掲載されていてその辺の事情が、詳しく記されている。

また、震災前に出版された歌集、震災後に出版された歌集、それぞれから作品を抄出している。

表題作「神のパズル」は震災前の2004年に雑誌に掲載された、原発を扱った連作で、2005年に出版された歌集『ひたかみ』に収められているものだ。

原子力発電所が自分の生活している近くにあることへの思いや、女川原子力発電所を見学したときの様子などが震災前の時点で歌われている。そこには、あの震災を経験する前の、原発への不安、怖れ、原発のある現状、風景などが描かれている。

その後、2011年東日本大震災が起こり、福島第一原子力発電所の事故が起きた。作者の生活は一変してしまった。この歌集には、震災後の歌集『桜の木にのぼる人』『トリサンナイタ』から抄出された多くの歌が掲載されている。2015年に短歌雑誌等に掲載された新しい作品も載っている。

この歌集全体が、現在の作者そのものであり、読んで判断してほしいということだと思う。あとがきによれば作者は震災前の〈ものさし〉はもう役に立たないと感じたという。震災後新しい〈ものさし〉が、この歌集の中に表れていることを願うと述べている。

  この国を好きにならなくともよしと秋天に富士そっけなく立つ


●久我田鶴子歌集『菜種梅雨』砂子屋書房

 2011年3月から2015年までの作品350首を収めた第八歌集。

 やはり東日本大震災についての歌が多い。この作者もまた、「やはりどうしようもなく、3.11以前と以後とでは変わってしまった気がする。いわゆる被災地≠セけの問題ではない。そして、この歌集は、まったく〈あの日〉以後の産物である。」と、あとがきで述べている。

  感動をしたがるこころ他人から勇気をもらひたがるこころ

  かはいさうなんかぢやないと泣きゐしが気がすんだやうに立ち上がりたり

  拒否すれば罪に問ふとぞ銅鑼ひびき〈一億総活躍〉の世に連れださる

 表現は、時代や出来事に揺さぶられる。そして作られた歌がまた、誰かを揺さぶるのだろう。自分の歌を歌うだけだ。

 

 

 

歌集・歌書を読む
(2016年9月 あべまさこ)


●大野道夫歌集『秋意』
『秋意』は、「心の花」編集委員である大野道夫氏の第五歌集となる。
構成上の特徴は、「本郷短歌会」や「題詠」など、作歌の機会や座学の場などの詞書が多用されている点にある。題詠に重点をおく傾向は、平安期への回帰であろうか。作歌鍛錬の軌跡である大野氏の題詠は個性的で、洗練された技をもつ。
    ガラス
  「コワレルノ?」「溶け合うの?」と君はいう「ガラスのような恋」囁けば
(U題詠の旅―本郷短歌会、「心の花」東京歌会&インターネット歌会、半月歌会)
 歌柄や歌風の特徴は、主情よりは客観表現による硬質な抒情にある。加えて、歌材は、日常生活はおろか、風俗、流行、「東日本大震災」、「象徴天皇制」など多様な社会的現象や問題に及ぶ。その上、相聞歌も織り込むなど柔軟さがある。
  教科書へ書かれる「東日本大震災」よりも書かれることなき死者の名こそを
  (死者の名こそを―東日本大震災(2011年3月11日))
 現代社会に向ける多方向のアンテナの感度から生まれる短歌に魅了される。
 『秋意』は、「秋の意志」という含意の作者の造語であるという。日本文化の核ともいえる抒情性を継承しつつも、主情中心から脱却した『秋意』の「意志のある歌」に、文学の力を感じる。

●三枝昂之歌集『それぞれの桜』
 『それぞれの桜』は、「りとむ」主宰の三枝昂之氏の第十二歌集となる。
 集題にある桜からは、伝統的な日本や独自の日本らしさが喚起される。それは、日本の時代性と社会性を包含するものである。三枝氏は日本らしさの範疇にある事象の描写と観察から、近代以降の日本的感性を捉えようとしている。
 一部では、白樺の小題を始めとして、各所での属目を詠む。二部では、多摩丘陵・冬から秋までの四季を題にして、各所の季節や人生の移ろい、日常を繊細な感性で捉えた抒情性に特徴がある。日本の各所が詠まれるが、重心は、産土の山梨県近郊と関東にある。
  薬師、観音、地蔵、甲斐駒一つずつ指差す甲斐の兄弟五人    (父)
 桜花にちなむ回想、武田神社、泰雲寺、湯村、洛北などのそれぞれの桜を詠み紡ぐ世界は、この世とあの世の境でもあり、散華のいのちも詠まれる。
  雨に散るさくらであったたらちねの母が身罷りし十五年前    (それぞれの桜)
また、桜が想起させる戦時下のいのちの在りようを三枝氏の父母、沖縄の土地との関係からも詠む。
  自決命令はあったであろう母たちは慶良間の谷で聞いたであろう (東風平)
 読後、個として、社会的存在として、現世にあってのいのちの在処をしばし自問した。

歌集・歌書を読む

(2016年8月 川原ゆう子)

●千種創一歌集『砂丘律』青磁社

洋書のペーパーバックのような斬新な装丁の歌集。作者は現在中東に在住しているとのこと。二十代の若さでの出版である。はたして私が感想など言えるだろうかと心配しながら読み始めた。

読んでみると面白かった。作品は抒情に満ちていて優しい。

瓦斯燈を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか

どんな嘘も混ぜないように歩いた、君と初冬の果樹園までを

カフェラテの泡へばりつく内側が浜辺めいてもドトールここは

人生は途中で終る物語、むせかえるほど咲く栗の花

エルサレムのどの食堂にもCoca-Cola並んで赤い闇、冷えてます

 どこに住んでも何を歌っても、この作者は、抒情というゆるぎないものを持っているのだと思う。

 

●天野慶歌集『つぎの物語がはじまるまで』六花書林

 優しい色使いの針葉樹のデザインが表紙と裏表紙に描かれている歌集。

 他の方の書いた脚本や漫画なども入っていて共同制作のような作りだ。多才な方らしく後書きのリストによれば脚本や童話や百人一首関連の著作もあるらしい。

 第T章の作品の中から挙げる。

  たくましく生きるほかない タピオカは噛み砕かれることなく喉へ

  てのひらであたためたって溶けだせないスノードームにいるの、永遠

  真夜中のコンビニエンスストアーに獲物を見つけられない狩人

 後半の第W章では結婚や子供のことが歌われている。まだ若い作者である。今後どういう作品が作られていくのか気になる。短歌を続けてくれればいいのだけれどと思う。

 

●渡辺松男歌集『雨(ふ)る』書肆侃侃房

 歌集名の『雨(ふ)る』のルビに少し混乱してしまった。いろんな「ふる」を含めて「感触的」にこの題名にしたそうだ。すでに多くの歌集を刊行している実績のある作者である。

  かみひとへかみひとへとぞつぶやきて紙の薄さに凝然となる

  キッチンとなかよくしたきわれなればおはやう、だれもゐないキッチン

  あぢさゐはたれの頭か知らざれどみな生きてゐてあめにぬれをり

  こぞにみて今年またみるさくらばな守衛にちれど守衛うごかず

  そらにまふ雪のひとひらみさだめて妻とおもひぬ地に消えてなほ

 後書きによれば、この歌集の歌を発表していた時期は妻の死、自分の病気など辛い日々と重なっていたらしい。作者は、その時期の思いを区切りのような形にして歌集にまとめる必要があったのだろうと思う。

 

歌集・歌書を読む

(2016年7月 あべまさこ)

●香川ヒサ歌集『ヤマト・アライバル』好日叢書・短歌研究社
『ヤマト・アライバル』は香川ヒサの第八歌集。「短歌研究」の作品連載を中心とした297首から成る。香川氏がアイルランドで2009年から実施している短詩型の朗読会で披露している歌も入集している。
歌集名は、大阪国際空港へ着陸する経路の一つを指す。あべ流訳は「大和方面からの着陸航路」。名称は広域航法により使用されなくなったという。作者の日常風景にこの航路を行く機体がある。
 香川氏の知的で硬質な抒情や認識による歌風が本歌集にも反映している。
 章題名、「星の友情」「判断」「肯定」「人」「出現」「必然」「火」「有限」「庭」「ヤマト・アライバル」だけでも特徴が感じられる。章題名の最初と最後を除くと、哲学書よりも無機質で、普遍だけを標的にしたような言葉が並び、異質な第一章と終章が呼応した構成である。
  やはらかき草生に束の間置きし影連れ歩み出すアスファルト路
  二十世紀初めに生まれしものたちもまだ乗せながら地球は回る
  星座持つ人ら集へりひさかたの星の友情信じてみよう (第一章最終)
 第一章の構成は巧みで、巻頭に帰省の着陸の歌を置く。宙に浮いたような現実との接点で日常を客観視するため、解離した感覚を味わう。視点は、地球規模から物質世界、地上、天上、宇宙規模にまで拡大するが最後はすとんと着地した歌で締める。歌集名と第一章から着陸と着地の差異に触れる歌集であると感じる。
 『源氏物語』のように、第一章が、主題や全体像を暗示するような効果をねらったようにも思え、精密さに感動する。
 全体を見渡すと、西洋哲学史、神学的学識に人類の遠近と、現代の社会的現象をミクロとマクロの両視点から綾なすように詠み込まれ、現代を理知的に批判している。理神論的な冴えに満ちている。
 章題名が織り込まれた作品のみを以下に引く。章題名に下線を引く。
  バスのドア開きてバスより足下ろし立つた世界を肯定したい
  人のため何かしたい人あまたゐて受付で人に名前書かしむ
  事における必然的なものが美で今はゴム長雪ではなくて
  火を見つつ思ふ思想は感覚の影なれば常に暗く虚しも
  朝曇り青天となり現れた機影がヤマト・アライバルに入る
 現代の社会的現象を幅広く追う視点は、人間の表情を描かないため、抵抗なく一般的感覚に訴えてくる。マクロな詠み方が希少になった現代において、短歌の抒情性をどのように変容・拡大させてグローバル化できるか。可能性を提示した歌集として輝いている。歌集のキーとなる掉尾の一首で本稿を着地したい。
  いく度も着陸すれど着地せぬ心のために大地あるべし


歌集・歌書を読む

(2016年6月 川原ゆう子)

●真野少歌集『unknown』現代短歌社
 「unknown」は「無名の」「名もなき」という意味かと思ったが、ボブ・ディランの曲の歌詞から取って「誰にも見向きもされない、相手にされない」というような少数派、マイノリティを意識したものらしい。常に少数派を意識すること、自分もいつ少数派の側になるかわからない。あるいはすでに少数派なのかもしれない。そんな気持ちが込められているようだ。
つまみたるとろろこんぶをひたしゆくごとく湯ぶねに身をしずめたり
複写機がホチキスどめまでするからににぎりめし二個食い終わりたり
紙屑を捨ててコートのポケットに手を入れたれば紙屑があり
 毎日をなんとか折り合いをつけながら生きてはいるが、何か持て余す気持ちがある。別の生き方をふと思う。そんな感覚になる歌集だった。

●尾崎朗子歌集『タイガーリリー』ながらみ書房
 「タイガーリリー」はピーターパンに出て来る少女の名前。ウェンディではなく、脇役だが元気な誇り高きインディアンの少女だ。
 作者は、いまだ男性社会の世の中で働き、時に義憤を感じながら、自分を抑えつつ生きている。そしてタイガーリリーに心を寄せる。
純情を暴走させることもなくタイガーリリーは胸に人恋ふ
たれか死に動かぬ電車ひとびとは顔をあげずにメールを打ちぬ
死ぬ気ならなんでもできるといはれきて自死者三万人の花冷え
 社会で頑張るタイガーリリーの歌にとても魅かれた。

●花山多佳子『森岡貞香の秀歌』砂子屋書房
  けれども、と言ひさしてわがいくばくか空間のごときを得たりき



歌集・歌書を読む

(2016年5月 あべまさこ)

●来嶋靖生『窪田空穂とその周辺』柊書房
 本著は、空穂会に所属する来嶋氏が「槻の木」との関連で、窪田空穂の評伝、系統における人物伝による史実をまとめられたもので、2015年6月に刊行された。
 先行の歌人論が並ぶときに、新たな評伝的歌人論をまとめる際、視点や構成に独自性がいる。本著は、窪田空穂についての評伝を独自の構成で平明にまとめあげられた良き解説書である。
 さて、本著の構成であるが、T空穂を読む、U空穂の友、V空穂を継ぐ者、の3章構成である。以下、各章ごとに紹介していく。
T空穂を読む
 5項目ある。@「みすずかる信濃の空穂」、A「空穂と宗教的情操」、B「戦時下の歌誌統合」、C「敗戦前夜の空穂」、D「空穂と日本アルプス」である。
 @ではふるさとの風土が魅力的に書かれている。お勧めの歌集『土を眺めて』、『鏡葉』、『冬木原』についてのガイドは卓越である。Aでは、空穂が不如意ななかで、キリスト教や禅宗へと傾倒する精神遍歴が胸を打つ。空穂の独創的用語である「宗教的情操」に関連する歌を引く。
  生命とはわが物なりやわが生命わが物ならずと身をもちて知る『去年の夏』
「宗教的情操」の深い意味は、空穂の書物に触れてこそのものであろう。
 BやCは、貴重な史実の記録である。特に戦中の国家統制による短歌雑誌の整備統合時、空穂の声明文の記録は圧巻である。Dは、登山関連の話である。
U空穂の友
 取り上げられた友は、『岩本素白』余滴、前田晁、吉江孤雁、土岐善麿、である。文学関連の同士として、時代と格闘し合う関係が記録と共に読める。
V空穂を継ぐ者
 取り上げられた人物名と事柄を列記すると、松村英一、植松寿樹、山崎剛平、浅見淵、稲森宗太郎、都筑省吾、大岡博、千代國一、武川忠一、岩田正、馬場あき子、橋本喜典、篠弘、三枝昂之、原田清、河出朋久、「槻の木」八十八年略史、である。薫陶を受けた人物と空穂系結社の「槻の木」の歴史が語られている。
 個々の活躍に継承の偉大さを目の当たりにする感じがする。直線的な関係だけではなく枝葉のように広がっている。
 総じて、オムニバス形式のためどこからでも読める利便性のある解説本である。Vにおいては、空穂との関連以外の功績や特長まで見えてくる。
「創作と研究の一致」―空穂が常々口にした言葉だという。理論と実践である。
 ちなみに、本著の冒頭で紹介された関係者刊行の窪田空穂関連の書物は、武川忠一著『窪田空穂研究』、島田修三、小高賢、内藤明、来嶋靖生共著『窪田空穂 人と作品』、岩田正著『窪田空穂論』である。
 研究の一歩として、本著の読後に関連して読破したいものである。



歌集・歌書を読む

(2016年4月 川原ゆう子)

●柏木節子歌集『海界』角川書店
「海界」は「うなさか」と読み、現実の世界と常世との境界を指すものと、あとがきにある。
 身内の方を亡くされ、「せめて私の死者たちは海界を越えて常世で機嫌よく暮らしていてほしいとの願望を持ちタイトルとした」とある。
  大玉の重きをくるくる剥きをへて二十世紀を丸ごと齧(かじ)る
  ちちははが越えてゆきたる海界(うなさか)を今し夫が越えてゆくなり
  百冊の本束ねしをドア隅に蹴躓きつつふたつきあまり
懐の深いユーモアを感じさせる歌が多い。
 生きている者が覚えている限り、その人は生きている。亡くなられた方もきっと楽しく常世で過ごされているに違いない。穏やかに前を向いてゆく作者を感じた。

●菊池裕歌集『ユリイカ』砂子屋書房
作者にとって十一年ぶりの第二歌集。「現代の社会批評たり得ようと本書を編んだ」第一歌集と作歌姿勢は同じなのだそうだ。世相を入れ社会を詠い、その中で生きる作者を映し出す。
  其処此処でブログ炎上した夜半に検索してもあなたはゐない
  ランチ後の会議たどたどしく過ぎぬ鰻の小骨が咽喉に刺さつて
  充電のためにスタバに入ることも習慣なれば珈琲苦し
 そこには読者の知っている現代があり、読み始めると、次は何を詠うのだろうと続けてメージをめくってしまう。しかし作者は、どこか傍観者で熱い思いの表現はしない。十年後もこの姿勢を続けるのだろうか、十年後が気になる。

●小池光『歌人入門@石川啄木の百首』ふらんす堂
久しぶりに石川啄木の短歌を読み、とても懐かしかった。
 見開き二頁の右頁に三行書きで啄木の歌があり、左頁にその歌の解説が書かれている。読みやすく、書店で見つけたら、つい手に取ってみたくなるような新書版の歌集だ。よく知られ、親しまれている作品が並んでいる。
  こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂(しと)げて死なむと思ふ
  ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場(ていしやば)の人ごみの中にそを聴きにゆく
  やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
「さびしいとき、悲しいとき、都会の雑踏に迷うとき、ふとこの世に自分の居場所がないように感じられるとき、人は唇の上に歌を上らせてひとときわが身を慰める。近代の無名無数の人々のこころに、そっとその失楽失意への共感と慰めをあたえる近代の「歌」を、その原郷として啄木は作ってみせたのである。」
 共感や慰めで何とか生きていけることがある。生きていればその先もある。薦めたい歌人入門書だと思う。